京成幕張駅のノスタルジックな雰囲気に、タイムスリップしたような感覚になる人は少なくないはず、、、
先日京成幕張駅を利用した際に、周辺を少し散策し、幕張町の下町情緒あふれる町に歴史を感じました。
現在でも京成幕張駅は線路を渡ってホームに移動する様な昔ながらの作りになっています。
昔の幕張の空中写真
こちらのブログで、地理@沼津高専「ウェブ地図」を知りました。
Google Mapを使って過去の空中写真を照らし合わせて見れるとのことで、見てみました。
右上の京成幕張駅、JR幕張駅、と左下のJR海浜幕張駅に赤丸を付けています。
出所:地理@沼津高専「ウェブ地図」の1945~50年頃の京成幕張駅付近の空中写真より、一部加筆
てっきり、国道14号は元々陸地で、昔からの主要道路だと思っていたのですが、この地図を見ると1945~50年頃は国道14号の場所も海だったのですね。
昆陽神社
そんな京成幕張駅の目の前に広いスペースにポツリと神社があります。
「いも神様」の名称でも知られているこの昆陽神社は、江戸時代の蘭学者である青木昆陽を祀ったものだそうです。
鳥居には青木昆陽の名前の通り、「昆陽神社」と書かれています。
青木昆陽と幕張
この青木昆陽、江戸時代にここ幕張町と、九十九里、東京都文京区の小石川養生園でさサツマイモの試作を行い、ここ幕張町のみで成功しました。
今までもサツマイモ栽培をした人はいたそうですが、関東に広めたのが青木昆陽と言われています。
その後幕府が事業化し、全国に広まったとのことで、「いも神様」と呼ばれるにふさわしい神様が祀られていますね。
昆陽神社の横には青木昆陽甘藷試作地も保存されています。
てっきりこの辺りは海の近くだったので園芸よりも漁業の方が有名なのかと思っていましたが、園芸でもこのような歴史が残っているのですね。
ちなみに、天保の大飢饉を救ったのも青木昆陽と言われるほど、功績は大きいです。
18世紀にサツマイモの普及が進んだ背景には、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の働きがありました。吉宗がサツマイモに注目するきっかけとなったのが、1732年(享保17年)に発生した「享保の大飢饉」。この年、西日本を中心に冷夏や干ばつなど悪天候により、米の生育不良が発生。加えて、米の害虫が大発生したことから農村地域は甚大な被害を受け、死者約1万2000人、飢餓人口200万人以上にも及ぶ大飢饉が起こりました。
しかし、サツマイモの栽培を広めていた瀬戸内海地域の大三島や薩摩藩内などではほとんど餓死者が出なかったことから、徳川吉宗は痩せた土地でも容易く栽培できるサツマイモを救荒作物として着目。かねてよりサツマイモの研究をしていた蘭学者・青木昆陽を登用し、関東地方でサツマイモ普及活動に乗り出し、栽培が定着したことから、後の天明の大飢饉、天保の大飢饉の難を回避することができたといわれています。
引用:明治維新の影の功労者はサツマイモ!?飢饉を救い、今では大注目のトレンド野菜へ | Through the LENS by TOPCON(スルー・ザ・レンズ)(筆者にて強調)
おいもにあやかろう
そんな昆陽神社のスグ横にはお芋パワーにあやかれるのか「いもっこ保育園」がありました。
可愛い名前の保育園ですね。笑
是非京成幕張駅を利用する際があれば、立ち寄って手を合わせたい神社でした。
なお、1月の三が日直後に訪れましたが、昆陽神社は初詣用に特別イベントをやっている様子はありませんでした。